ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

18世紀ドイツにおいて活躍した作曲家であり、『音楽一族バッハ家』の一人。鍵盤楽器の演奏においても高名であり、当時から即興演奏の大家として、広く認識されていた。

西洋音楽の歴史において、後世の作曲家に顕著な影響を与え、近代西洋音楽の基礎を構築した功績に敬愛の念を顕して、『音楽の父』と呼称される事もある。

そんな音楽の父である彼の出自となる『バッハ一族』は、数多くの音楽家を世に輩出した一族として、ヨーロッパはおろか世界各地にその名が知れ渡っている。バッハ家が、世に輩出した音楽家の人数は、約二世紀半尾間におよそ60人に達した。

ヨハン・ゼバスティン・バッハは、その他のバッハ一族との混乱を避けるために、『J.S.バッハ』と略記することがある。また、バッハ一族の中において西洋音楽の歴史の中に、最も重要な功績を残した偉大なる音楽家であるということから、古来より『大バッハ』という呼び名によって、呼び習わされている。

生涯

1685年、J.S.バッハは、アイゼナハの町楽師ヨハン・アンブロシウスの末弟としてこの世に生を受ける。バッハが9歳に頃に母親が死去する。10祭のときに父親もこの世を去り、オールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学を学ぶ。その後リューネブルクに移り、修道院付属学校の給費生として生活した。

1703年にヴァイマルの宮廷楽団に就職し、その時はヴァイオリンを担当したが、ヨハン・エフラーの代役でオルガン演奏もこなしていた。同年。あるンシュタットの新教会に新しいオルガンを設置され、その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露し、そのまま同協会のオルガニストに採用され、演奏の他に聖歌隊の指導も任された。

1705年10月、バッハは四週間の休暇を取り、リューベックへと旅行する。アルンシュタットからリューベックまでの役400kmを彼が徒歩で向かったといわれている。そして当時の聖マリア教会のオルガニストを勤めるディートリヒ・ブクステフーデの演奏を学んだ。

68歳のブクステフーでもバッハの才能を買い、彼の娘マリア・マルグレータとの結婚を条件に後継者になるよう持ちかけた。聖マリア教会のオルガニストの地位はは若いバッハにとって破格だったが、彼はブクステフーでの申し入れを辞退する。マルグレータはバッハよりも10歳も年上の30歳であり、2年前にもゲオルグ・フリードリヒ・ヘンデルとヨハン・マッテゾンが付帯条件を聞いて後任を辞退する。

バッハがアルンシュタットに戻ったのは1706年1月末で、4週間の休暇に対し3ヶ月以上も留守にしていた。オルガン演奏の代役は従弟のヨハン・エルンスト・バッハに頼んでいただが、聖職会議は彼を叱責する。さらに、演奏時にブクステフーデから受けた影響であろう『耳慣れない』音を出すことや、聖歌隊に対する指導の不備を糾弾した。その後11月にはまだ聖職会議に呼ばれ、合唱隊の中に見知らぬ娘を入れて歌わせたということも非難された。この娘は後に最初の妻となる遠戚で一つ年上のマリア・バルバラであったとも考えられている。

その頃、既にバッハ能力は高く評価されており、1706年12月にミュールハウゼンのオルガン奏者ヨハン・ゲオルク・アーレが無くなり、後任の募集が行われていたところをバッハは応募する。元々このミュールハウゼンはマリア・バルバラの親戚が市参事会員であった縁もあり、見事に合格を果たす。

1707年6月に移り住んだバッハは、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会にオルガニストとして招かれる。その報酬はアルンシュタット時代とは代わらないが、それでも当時の相場としてはかなりの高額だった。同じ年、マリア・バルバラと遂に結婚し、二人の間には7人の子供が誕生、その中で長男のフリーデマン・次男のエヌマエルは高名な音楽家として、後の世に名を知れ渡ることになる。

翌年、再びヴァイマルに移って宮廷オルガニストなったJ.S.ヨハンは、この時に多くのオルガン曲を作曲する。6年後には楽師長に昇進し、一月に一曲のカンタータを作曲・上演を行っていた。しかし最終的には主家にはお家騒動の余波を受けて投獄された後、ヴァイマルから追放されてしまう。

1717年、ケー点の宮廷楽長となり、恵まれた環境の中で、数多くの世俗音楽の名作を作曲する。2年後の5月、ハレに帰郷し家族と共に過ごしていたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルを、4マイルほど離れたケーテンにいたバッハが会いに訪れたが、到着した日にはヘンデルが出発した後だったために会おうことが叶わなかった。

1720年夏、領主レオポルト候に従っての旅行中に妻が急死する不幸に見舞われ、翌年、宮廷歌手として活動していたアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚をすることになる。アンナは有能な音楽家であったとの見解があり、音の仕事を助け、作品の写譜なども行っていたという。有名な『アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア曲集』は彼女のためにバッハが送った楽譜帳で、バッハの家庭で演奏されたと考えられている曲が折々に書き込まれている。アンナ・マグダレーナとの間に生まれた13人の子供のうち、末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となったほか、モーツァルトに大きな影響を与えた人物である。

1723年、ライブツィヒの聖トーマス教会のカントル『トーマスカントル』に就任し、また同時にライブツィヒ市の音楽監督にもなり、教会音楽を中心とした幅広い創作活動を続けていた。ルター派の音楽家として活動していたが、王のカトリックへの宗旨変えに応じ、宮廷作曲家の職を求めカトリックのミサ曲も作曲していた。

1729年1月にはハレ滞在中のヘンデルに長男フリーデマンを派遣し、ヘンデルのライブツィヒ招待を申し出たが断られてしまう。結局、バッハはヘンデルとの面会を強く望んでいたものの、ヘンデルとの面会は生涯実現すること無かった。当時のヨーロッパにおいては、ヘンデルはバッハよりも遥かに有名であり、バッハはヘンデルの名声を強く意識していたが、ヘンデルの方はバッハをあまり意識していなかったとも言われている。但し、ゲオルク・フィリップ・テレマンやヨハン・マッテゾン、クリストフ・グラウプナーなど、バッハとヘンデルの両名と交流のあった作曲家は何名か存在している。

1736年にはザクセンの宮廷作曲家に任命され、それから11年後には次男のエマヌエルが仕えていたベルリンのフリードリヒ大王の宮廷を訪問、これは『音楽の捧げもの』が生まれるきっかけとなる。

そして遂に音楽の父にも病の魔の手が襲い掛かり、1749年5月末に脳卒中で倒れてしまう。聖トーマス教会の楽長という高い地位を妬む者たちが働きかけ、市参事会は後任にゴットロープ・ハラーを任命する。さらに以前より患っていた内障眼が悪化してしまい視力をほとんど失ってしまうが、バッハ自身は健康を回復したためはラーの仕事はお預けとなってしまう。

翌年、イギリスの高名な眼科医ジョンーテイラーがドイツ旅行流の最中ライブツィヒに訪れ、バッハは三月末と四月半ばに二度手術を受けることになる。述語、テイラーは新聞記者を集めて『手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した』と述べる。

しかし実際には手術は失敗しており、テイラー帰国後にバッハを診察したライブツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になってしまったという。

二度の手術に後遺症、薬品投与などの治療は既に高齢なバッハの体力を奪い、その後は病床に付してしまい、同年7月28日午後8時15分に65歳でこの世を去る。なお、当のテイラーは回顧録で『高名な音楽の巨匠の視力を完全に回復させた』と誇らしげに記したが、これがいかに高慢な態度だということを露呈してしまい、ある種の恥をさらしてしまったといえるだろう。

生前のバッハは作曲家というよりもオルガンの演奏家・専門家として、また国際的に活躍した彼の息子達の父親として知られる存在に過ぎず、彼の曲は次世代の古典派からは古臭いものとみなされたこともあり、死後は急速に忘れ去られてしまう。それでも鍵盤楽器の曲を中心に彼の息子達やモーツァルト・ベートーヴェン・メンデルスゾーン・ショパン・シューマン・リストなどと言った音楽家達によって確実に受け継がれていき、1829年のフェリックス・メンデルスゾーンによるマタイ受難曲のベルリン公演をきっかけに一般にも高く再評価されるようになった。

作品傾向

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、幅広いジャンルに渡って作曲を行い、オペラ以外のあらゆる曲種を手掛けている。その様式として、通奏低音による和声の重鎮を基礎とした『対位法的音楽』という、バロック音楽に共通して見られるものであるが、特に対位法的要素を重んじる傾向は強く、当時までに存在した音楽語法を集大成し、さらにそれを極限にまで洗練進化させたものである。よって、バロック時代以前に主流であった対位法的なポリフォニー音楽と古典派時代以降主流となった和声的なホモフォニー音楽という二つの音楽スタイルにまたがり、結果的には音楽史上の大きな分水嶺のような存在となっている。

バッハは、ドイツを離れたことこそなかったが、勉強熱心で幅広い音楽を吸収した。とりわけ、古典派のソナタにも比すべき論理性と音楽性を持つフーガの巨匠として名高い。

現代においても奈緒新鮮さを失うことなく、ポップスやジャズに至るまで、あらゆる分野の音楽において応用され、多くの人々に刺激を与え続けている。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品はシュミーダー番号によって整理されている。『バッハ作品目録』は、1950年にヴォルフガング・シュミーダーによって編纂され、バッハの全ての作品が分野別に整列されている。

また1951年からドイツのヨハン・ゼバスティアン・バッハ研究所で『新バッハ全集』の編纂が開始され、その二年後にバッハアルヒーフにも編纂に参加するが、10年で終わると予想されていた編纂作業がドイツの東西分断などの事情で難航し、2007年に『新バッハ全集』103巻が完成した。『新バッハ全集』には1100の作品が収められており、現在も作品の整理は継続中である。

管弦楽・協奏曲の場合

器楽だけによる合奏曲では、ブランデンブルク協奏曲・管弦楽組曲・複数のヴァイオリン協奏曲、チェンバロ協奏曲などがある。特にブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲にでは『G戦場のアリア』の元となる楽章など、広く親しまれている作品が多い。

奈緒、4台のチェンバロのための協奏曲BWV1065は、アントニオ・ヴィヴァルディの協奏曲の編曲である。

室内楽曲

室内楽曲作品はそれまで伴奏として扱われてきたチェンバロの右手パートを作曲することによって、旋律楽器と同等、もしくはそれを上回る重要性を与え、古典派の二重奏ソナタへの道を開いたヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ、フルートとチェンバロのためのソナタ、ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタなどは特に重要である。なお、バッハの場合の『ソナタ』とはいわゆるバロック・ソナタであり、古典派以後の『ソナタ』より簡潔な形である。バッハのソナタの大部分が緩・急・緩・急の4楽章からなる教会ソナタのスタイルを取っている。

器楽曲

オルガン曲

バッハの器楽曲の中でも、オルガンによる音楽曲は、音楽史において取り分け、重要な楽曲である。バッハは生前、オルガンの名手として著名な音楽家であり、オルガンの構造にも精通していた。また、優れた聴覚能力を持ち、演奏上における音響効果を精緻に判別できた。そのため、各地においてオルガンが新造され、改造された際には度々楽器の鑑定に招かれ、的確なアドバイスと合わせて即興演奏を始めとした名技を披露し、聴衆に圧倒的な印象を与えたと伝えられている。

『個人略伝』が伝える有名な逸話として、1717年、ドレスデンにおいてフランスの神童と謳われたルイ・マルシャンと対戦することになった際、マルシャンはバッハのあまりに卓越した演奏に恐れをなして対戦当日に逃げ出し、バッハの不戦勝となったといわれている。

バッハのオルガン作品は、コラールに基づいた『コラール編曲』と、コラールに基づかない『自由作品』の二つに分類される。現存する主要作品は、30曲あまりの自由作品と、コラール前奏曲の四つの集成、いくつかのコラール変奏曲である。

クラヴィーア曲

バッハの時代には、ピアノはまた普及するには至っておらず、彼のクラヴィーア作品は、概ねチェンバロやクラヴィコードのために書かれたものとされている。その多くはケーテンの宮廷学長時代に何らかの起源を持っており、息子や弟子の教育に対する配慮もうかがえるものとなっている。

平均律クラヴィーア曲集 - 長短24調による48の前奏曲とフーガ、ベートーヴェンのソナタがピアノの新約聖書と称されるが、このバッハの平均律クラヴィーア曲集はピアノの旧約聖書と称されている。これらは音楽史上最も重要な作品群のひとつとして数えられている。

クラヴィーア練習曲集 - バッハが生前に出版した鍵盤作品集となっている、第一巻、第二巻及び第四巻はて鍵盤のための作品だが、第三巻には足鍵盤付きのオルガン曲が多く含まれている。

その他器楽曲

旋律楽器のための無伴奏作品集には無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ・無伴奏チェロ組曲の二つがある。これらは、それぞれの楽曲の能力の限界に迫って多声的に書かれた作品群であり、それぞれの楽器の演奏者にとって聖典的な存在となっている。特に、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番の終局に当たる『シャコンヌ』は人気の高い作品で、オーケストラ用やピアノ用など、19世紀以降様々な編曲が行われている。

また、バッハは当時廃れつつあったリュートにも強い関心を示し、複数の楽曲を残した。但し、近年の研究では、BWV996などいくつかの作品は、ガット弦を張った鍵盤楽器ラウテンヴェルクのために書かれたと推定されている。

これらの作品は、今日、20世紀に復活したバロックリュートで弾かれるほか、クラシックギター向けの編曲作品も広く演奏されている。

声楽曲

バッハはその音楽的経歴の大部分を教会音楽家として送り、宗教的声楽曲は彼の作品群の中でも重要な位置を示している。特に、ライブツィヒ時代の書記数年間において、毎日曜日の礼拝にあわせて年間50~60曲ほど必要となるカンタータをほぼ毎週作曲・上演するという、驚異的な活動を行った

ちなみに、彼は宗教曲の清書自筆譜の冒頭に『JJ』と、最後に『SDG』と書き込むことを常としていた。

『JJ』とは『Jesu juva!』の略称であり、その意味は『イエスよ、助けたまえ』となり、『SDG』は『Soil Deo Gloria!』の略称であり、『ただ神のみに栄光を』となっている。表記はラテン語となっている。

今日残されているのは、ドイツ語による約200曲の教会カンタータ、二つの受難曲と三つのオラトリオ、六曲のモテット、ラテン語によるマニフィカト曲一曲、小ミサ曲4曲と大ミサ曲一曲が主要なものである。

また、それとは別に宗教的な題材に寄らない約20曲の世俗カンタータもある。目的は様々で、領主への表敬、結婚式や誕生日祝い、さらにコーヒー店で演奏会用の作品と見られるももある。その中にはしばしばユーモアがにじみ出ており、バッハの人間性にじかに触れるかのような楽しさが感じられる。なお、テクストを取り替えることによって宗教的作品に転用されたものも存在する。

マダイ受難曲 BWV244

古今の宗教音楽の最高峰のひとつとされ、2部全68曲からなる1727年にライブツィヒにて初演され、後世にメンデルスゾーンによって取り上げられ、バッハを一般的に再認識させるきっかけとなったといわれている

ミサ曲 ロ短調 BWV232

ミサ曲ロ短調は『バッハ合唱曲の最高傑作』と証されている。最初の二つの部分。きりえ、及びグローリアは1733年に、サンクトゥスが1724年に書かれ、残り大半は1747年から49年にかけて既存作品を利用しつつ作曲された。

最近の研究では、バッハが最後に完成させた曲とされている。

マニフィカト BWV243

ミサ曲ロ短調と同様、ラテン語の歌詞によっており、明るいニ長調を主張とする作品である。深刻な音楽を好まないラテン系の諸国においては、バッハの作品として人気がある。

特殊作品

バッハが特に晩年になってから手掛けた様々な対位法的作品群が、一般に特殊作品として分類されている。音楽の捧げものBWV1079やフーガの技法BWV1080に代表される。子の二つの作品は、いずれにも一つの主題に基づいて作られており、フーガ、あるいはカノンの様々な様式が用いられている。

このほか特殊作品として、いくつかの単独のカノンや14のカノンBWV1087がある。カノン風変奏曲『高き御空より』BWV769もここに含まれるべきなのだが、楽器指定が明確であるためオルガン曲として分類されている。

正直な話、筆者はそこまでクラシック音楽に詳しいわけではないが、J.S.バッハ作の『G戦場のアリア』などは邦画でもよく使われており、この音楽を元にした映画も実際に作られているなど、バッハ事態が現代にも広く影響を残しているということがよく分かる。それだけ後世に大きな影響を与え、モーツァルトなどにも強く刺激を与えたというだけのこともあり、別名の『音楽の父』というのも頷ける話だ。

また、バッハが一族揃っての音楽一家ということもあり、息子を含めた数多くの高名な音楽家を輩出しているということで、J.S.バッハの弟子を含めた指導方法がいかに優れていたのかというのも読むだけで理解できる。このようなすばらしい人が一時期その存在を忘れ去られてしまったということが悲しいことだ。

だがそれだけ、当時の欧米諸国の古典派音楽が衰退し、ロマン派音楽の勃興によって、古臭いものとみなされてしまうなど、どれだけ音楽が盛んだったということがよく分かる。

筆者は思うに、もしこのとき正当にバッハが評価されていなくても、時代が経てば必ず音楽としての価値を見出す歴史学者は出ていただろうと思う。ヨーロッパが産んだ一人の天才音楽家の残した音楽は死ぬことなく、時代を超えて受け継がれていく。

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